願えば叶う 増井光子先生 記念展示

願えば叶う 増井光子先生記念展示
期間:2011年10月28日(金)〜2012年1月27日(金) ※土日祝除く
場所:麻布大学 獣医学部棟1階 展示コーナー
好評につき展示期間を延長しました。

「願えば叶う ― 増井光子記念展示」趣意

増井光子先生は麻布大学の卒業生の中でも最もよく知られた人といえよう。その増井先生が昨年の夏に急逝された。突然の訃報に我々後輩は深い悲しみに沈んだ。
増井先生といえば、「女性の動物園長」としてのイメージが最も強い。その影響は単に動物園の世界に留まらず社会に広く及び、子供から老人までもが敬愛していた。「動物のことをなんでも知っている人」であり、「動物のことが大好きな人」であった。
他方、パンダの出産に貢献するなど獣医師としての知識、技術も卓越していたし、哺乳類の研究者として、行動学や社会学でも論文を執筆しておられる。もちろんよりよい動物園を求めてソフト・ハード両面で改善の努力をされた。それに留まらず、増井先生による動物の命についての洞察は、日本の社会が都市化し、自然との距離が遠ざかってゆく中で、社会全体に対して警告を発していたように思われる。
いっぽう、マラソンランナーとして、乗馬のエキスパートとして、在来馬の保存のための専門家として、さらには根付けなど動物関係の芸術品のコレクターとして、いずれも卓抜したレベルに到達した人でもあった。私たちには増井光子という人の全貌は巨きすぎて把握できないほどである。
麻布大学は増井光子を育てた母校としての栄誉に与るが、増井先生自身も本学への愛着と貢献は大きい。平成8年からの3年間、教授を務められ、その後、動物園に戻られてからも講義を受け持って頂いていた。
このたび、母校としてご遺族から増井先生のご遺品をご寄贈頂いた。その量が多いために、今後資料として整理、解析をしなければならないが、今回はその一部を紹介することとした。この展示を通じて増井先生の人柄を窺うことができるよう心がけた。本学の学生は、当時の獣医学科の雰囲気を想像し、増井先生の夢を追う姿勢を学んでほしい。同時にこの展示は大学祭の活動として市民に開放する。市民の皆様に増井先生の精神を汲み取って頂ければ幸いである。

麻布大学学術展示委員会

麻布獣医科大学以前

増井光子は昭和12年(1937年)に大阪に生まれた。石鹸生産をする豊かな家庭に育ったが、ふつうの女の子のように人形で遊ぶというようなことには興味がなく、生き物に特別に関心を示したという。それは犬などのペットだけでなく、ゴミ捨て場のハサミムシなど、大人は汚いといって敬遠するような生き物に対してもも注がれた。時代は太平洋戦争へ突入する前夜であるから、戦時色が強まっていた。光子自身の記録によると、幼稚園のときに動物画家になりたいと思っていたようである。物心がついた頃はすでに太平洋戦争の渦中にあり、戦災の危険があったので小学2年生のとき(昭和20年、1945年)に生駒山の山麓(現在の東大阪市)に疎開した。大阪市内と違って自然が豊かであり、光子少女は生き物に接しながら育った。光子自身が語るところによれば、それまで内気でさえない少女だったが、疎開してからは活き活きとした積極的な子供になったという。そして小学生の頃にはすでに動物学者になることを夢見、高校生になると獣医師になることを決意したという記録がある。ただし記録によって多少の違いがあり、学者と獣医師の希望は峻別されたものではなかったと思われる。しかし高校生のある段階で日本犬研究会の板垣四郎先生にあこがれて、板垣先生が学長である麻布獣医科大学に入学を希望する。決意するや単身で上京して受験手続をとる。当時の大阪と東京の遠さは今では想像もできないほどであった。このあたり、その後の人生で示される意志の強さと行動力の萌芽が読み取れるようである。

来園者に動物の解説をする増井光子(よこはま動物園提供) 来園者に動物の解説をする増井光子(よこはま動物園提供)

 

麻布獣医科大学時代

増井光子は昭和30年(1955年)、麻布獣医科大学・獣医学部に入学を果たす。好きな動物学であるから、水を得た魚のように勉学に意欲的に取り組んだ。当時は百人あまりの学生のほとんどは男子であり、女子学生は2人だけであった。増井光子は日本で2番目の獣医師となったといわれる。もともとはイヌに興味があったのだが、大学でさまざまな動物に接し、関心を拡げて行った。大型動物の実習にも積極的に取り組み、ウシの直腸に腕を肩近くまで入れているのを見て、ほかの学生が目を丸くしたという逸話がある。入学前からさまざまな動物に親しんでいたが、ウマには接したことがなかったので、大学でみたウマには強く惹かれたようだ。馬術部員がいやがる厩舎の作業を買って出て精を出した。当時ウマは3頭飼われており、増井は朝、大八車で大学周辺の青草を100キログラムほども刈ってきた。ススキなどは皮膚を傷つけるから、チカチカしたらしい。それからウマを運動させたり、寝ワラを干したり、馬糞を片付けたりとたくさんの作業をこなした。こういう作業を通してウマの行動や固体ごとの性格などを学んだ。

 

麻布獣医科大学時代 麻布獣医科大学時代

板垣教授(当時学長)の臨床学研究室のメンバーとして 板垣教授(当時学長)の臨床学研究室のメンバーとして

学生時代の増井は勉学一筋で服装も質実、当時は女学生はほとんどがスカートをはいていたが、増井光子はいつもズボン姿であった。勉学のかたわら、馬術部と剣道部にも属し、これらも一流であった。ウマへの関心は障害一貫したものであり、後年「ウマのマラソン」と呼ばれるエンデュランス競技での活躍につながるし、在来馬の保全、競馬鑑賞も継続した。学生時代には、さらに英会話の勉学のために横浜に通っていた。これも将来、動物園で勤務し、国際的な交流があることを想定してのことだったらしい。

当時獣医学部は4年制であり、研究室はあこがれの板垣教授(当時学長)の臨床学研究室に属した。4年生の夏には40日間、休むことなく動物園で実習をした。その勤勉さは動物園にも印象を残したようである。こうして心おきなく動物学を学び、充実した4年間を過ごして、昭和34年(1959年)に卒業した。

上野動物園時代

昭和34年(1959年)、卒業と同時に東京都恩賜上野動物園に勤務する。当時、女性の獣医師はほとんどいなかったので、増井の勤務には反対の声が多かったという。当時の上野動物園の園長は古賀忠道氏で、動物園界に大きな影響力があった。古賀氏は周囲の意見に対して、「だって君たち、やらせてみなきゃ、だめかどうかわからんじゃないか」と言い、その一言で勤務が始まった。このエピソードは、その後動物園長になった増井自身がおりあるごとに語っている。増井は古賀園長のこのことばに恩を感じ、「これに応えなければ、人間として失格だ」と自分を鼓舞していたようである。
初めての女性の動物園の獣医師ということで社会からも注目された。大きな仕事としてジャイアントパンダの人工繁殖の成功がある。昭和40年代は日本が経済復興を果たし、田中角栄内閣の時代に日中の国交回復(1972年)が果たされた。そういう流れの中で中国政府からパンダが贈られ、日本中が「パンダブーム」に湧いた。そうした中でホアンホアンの人工繁殖が成功し、これに増井光子が果たした役割は大きかった。この頃、動物園内の動物の行動観察や、宮城県のタヌキ、岡山県のオオサンショウウオの調査など、野生動物の研究も手がけている。また、昭和46年(1971年)頃にアフリカ訪問し、野生動物の観察をしている。このように従来の動物園の獣医とは違う活動をしている点が注目される。

人工授精のためにパンダにガス麻酔をする。(上野動物園提供) 人工授精のためにパンダにガス麻酔をする。(上野動物園提供)

ゾウの世話をする。上の動物園(週刊公論) ゾウの世話をする。上の動物園(週刊公論)

一方、動物園で死亡した動物を丁寧にスケッチしていた。今回寄贈された遺品の中に当時のスケッチが遺されていた。その作品は非常にリアルで、たとえばガリガリに痩せたライオンはその痩せた状態がそのままに描かれている。また皮を剥いだあとの筋肉の描写や、内臓のスケッチもある。さらに足の跡をスタンプで写し取った記録もある。こうした徹底的な記載は増井光子の動物学に対する姿勢を示している。こうした活動は忙しい勤務外におこなわれたと推察される。
驚くべきことに、40歳代になってからジョギングを始め、その後マラソンにも挑戦するようになる。このように上野動物園時代の増井光子の活動は超人的といえるだろう。

動物園人として

増井光子の動物園人としての活躍は上野動物園で始まり、大きく開花したが、その後も、昭和63年(1988年)に井の頭自然文化園の園長となり、獣医師としてだけでなく、動物園を司る立場としての活躍を始める。そして2年後の平成2年(1990年)には多摩動物公園園長となった。その後、平成4年(1992年)には古巣の上野動物園に園長として迎え入れられることになる。平成8年(1996年)から3年間は麻布大学獣医学部客員教授となるが、平成11年(1999年)には「よこはま動物園ズーラシア」の初代園長となり、再び動物園人にもどる。この動物園は生息地を重視した構造をとった、新しいタイプの動物園であるが、その構想、運営に増井光子が果たした役割は大きい。このことは野生動物の観察をした若い時代の経験が活きている。
増井光子の動物園長としての力量は非常に大きなもので、日本動物園水族館協会会長としても動物園界全体をリードした。
同時に野生動物の保護にも強い関心を示し、平成11年(1999年)からは、本務のかたわら兵庫県立コウノトリの郷公園の初代園長(兼務)となった。増井光子は地元の関西でのコウノトリ復活の活動にことのほか情熱を注いでいた。増井が園長となってからコウノトリの放鳥が成功し、全国的な話題となった。

動物園の獣医となった増井には「動物の獣医さん」あるいは「動物のお母さん」という呼び方がされた。一般の人がもつ獣医師に対するイメージは「近寄りがたいお医者さん」であったから、社会は女性の獣医にはやさしさや親しみやすさを期待したであろう。増井は実に多くの取材を受けている。また動物に関する解説やエッセーなどの文章はおびただしい量におよび、多筆であったことをうかがわせる。こうした著作や講演などを通じて増井が社会に伝えようとしたことはおよそ次のようなものであるらしい。

よこはま動物園園長室にて(東海総研) よこはま動物園園長室にて(東海総研)

インドネシアにて(堀浩氏撮影) インドネシアにて(堀浩氏撮影)

動物学の専門家として子供や市民に動物の魅力を伝えること。その中でも動物の子育て、親の役割、子供の成長など、一般の人が関心をもつ話題が多い。行動学やコミュニケーションについての記載も少なくない。また「動物園の動物」だけでなく、野生動物にも強い関心を払ったことも動物園人としては稀有なことであった。
また当然ながら、動物園そのものについての言及もある。動物園で学ぶことや、動物園側からみた動物園の事情の紹介、そして将来進むべき動物園の道筋を示してもいる。
マスコミは大きなニュースがなくなると動物園に取材に行くといわれる。動物には多くの人が興味をもち、心温まる話題があるからだろう。しかし、そうであるゆえに、取材側に安易な姿勢もありがちである。たとえば動物を擬人的にみて、「動物でさえ、こんなに子供に愛情を示す。人も学ぶべきだ」という調子の答えを期待した質問がある。こうした質問に対する増井の態度は一貫して科学的で、無用な擬人主義を排す。あくまでも獣医師として、あるいは動物学者として動物の特性を説明し、人間的な意味での愛情や憎悪があるとは限らないことを説明し、増井自身はつねに科学的態度を保持している。

50歳代の後半くらいからは、動物に対する人間の姿勢や、自然と人とのかかわりにも言及するようになる。獣医師として大きな業績をあげ、動物園長として社会とのかかわりを持ち続けてきた増井がこうした高い視線からの見解を示すようになったのは自然なことであろう。そこには経済復興に邁進し、人と動物、人と人の絆が稀薄になった日本社会への懸念と、そうであるからそれを改善したいという強い信念が見いだされる。
増井光子が動物園人として働く上で、女性であることの壁がなかったとは考えられない。しかし増井自身の口から泣き言は一切聞かれない。むしろ楽しく、充実していたと語られている。増井が生きた1937年からの4分の3世紀は、日本社会が経験したことのないほどの激動期であった。その過程で女性の地位向上の運動もあった。しかし増井はそのことを社会運動のような形においてではなく、自らの生き方そのもので具現していった。性には関係なく、実質的によい仕事をすることで周囲を納得させていった。それどころか、増井には人間と動物のあいだにあるバリアーさえ取り払おうとしていたふしがある。そして動物園にそのような機能をもたせたいという夢をもっていたようである。増井は今後、バリアフリーを実践した人として、女性の地位向上、あるいは人間と動物の関係のありかたという視点から評価されることになるであろう。

写真を年代を追って通覧すると、増井光子の表情は50歳代以降、おだやかでにこやかになるように感じられる。それは、よき獣医師であろうと一心不乱に邁進した増井と、高い志を持ち、夢を実現した増井の違いであるかもしれない。そのこと自体が増井が身をもって示した「願えば叶う」ことの具現であったといえるだろう。

増井光子が求めたものと遺品

増井光子の生涯を通覧すると、その生涯は動物に対する関心と愛情で一貫していたといえるだろう。幼い頃の遊び、学校での勉強、大学での勉学もすべてその線上にあった。そして、文字通りそれを具現する職業として動物園の獣医師となった。そして園長という立場となってそのことを社会に発信もした。一方、これらとは一見別のことのように思われるマラソンや根付けのコレクションなども、「動物園人には強靭な体力が不可欠である」、「動物のことなら何でも知りたい」というところから発したものであったらしい。
増井は職業としての動物園人として、講演や著作を通じて社会に生命の尊重を発信し続けた。その膨大な資料はスクラップブックにこまめに整理されている。一方、そうした記述にはほとんど現れないが、増井は個人として根付けのコレクターでもあった。その内容は非常に質が高いとのことである。また馬については公私とも格別の関心を注ぎ、騎手としても活躍し、関連のコレクションもある。さらに動物の人形や切手、貝、鉱物などの収集品もある。
2011年8月にご遺族からこれら遺品が麻布大学に寄贈された。これらの資料の中から、増井光子像を描き、彼女が求めたものを読み取ることができるだろうか。それは後進にのこされた汲み尽くすことのない知的作業だと思われる。

増井光子は子供の頃から絵を描くことが好きであった。おそらく学生時代に実習を通じて動物の描き方を学んだものと察せられる。上野動物園時代に動物の死体を詳細にスケッチしている。そのライオンの死体はガリガリに痩せたものだが、それを忠実に描いている。その後剥皮して筋肉を描いている。頭部、四股、内臓など器官を抽出したスケッチもある。さらには足型をスタンプでとっている。このようなスケッチや20種以上についておこなわれている。今のところ、これらについての文字による説明は見つかっていない。こうした徹底的な記録は、特定の目的をもったものではなく、ナチュラルヒストリーの精神によるものと思われる。同時に、動物園の獣医として、看病や治療をしたにもかかわらず志望した動物もいたはずであり、生を全うした動物への鎮魂の意味もあったかもしれない。これらのスケッチは、獣医師としての忙しい仕事を終えた勤務時間外に行われたものと思われる。

ライオン(♂)前足/画:増井光子 ライオン(♂)前足/画:増井光子

小型のシカ/画:増井光子 小型のシカ/画:増井光子

小型のシカ/画:増井光子 小型のシカ/画:増井光子

増井光子は動物だけでなく、貝類、鉱物などの自然物にも関心をもち、機会あるごとに収集していた。 増井光子は動物だけでなく、貝類、鉱物などの自然物にも関心をもち、機会あるごとに収集していた。

 

過去に開催した学術展示

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